お問合わせ
あいち田舎暮らし応援団

あいちの山里暮らし人だより

~Michi~

Vol.18

3歳の息子と遊べる今が幸せ

化学物質過敏症を乗り越え、田舎起業

「病気になる前よりも元気になったねと、訪ねてきた友人たちに言われるんです」と話す、杉浦篤さん。化学物質過敏症だった杉浦さんは、まちの空気から逃げるように設楽町へとやってきた。地域おこし協力隊後、そのまま起業。お茶の種から搾油した化粧品の製造販売業を行っている。

 

 

空気の違いがはっきり分かる

「ここに来た頃は、毎日頭が痛くて、ゴーグルをして暮らしていたんですよ」、今目の前にいる杉浦さんにそう言われても、なかなか信じられないだろう。肌もきれいで、健康そうに見えるからだ。だが杉浦さんは、化学物質過敏症。まちの空気に耐え切れず、田舎暮らしを始めた人だ。「化学物質過敏症の私には、設楽町の空気の良さがはっきりと分かります。体の調子が大きく変わるからです。とにかく、体調を保って、人並みに暮らせるためには、僕にはきれいな空気が必要でした。それが移住を考えた理由です」

 

 

 

アトピー体質、そして10年前…。

幼いころから体が弱く、アトピー性皮膚炎だった杉浦さん。もともと皮膚は環境変化に敏感だったが、10年ほど前にさらに調子が悪くなった。

「その頃、洗濯洗剤や柔軟剤など、香りの強いものが流行っていたんですよね。その近くにいると、頭や体が痛くなってしまって。当然、人は服を着ているので、その中にいるのがどんどん辛くなっていきました」

当時は今ほど、化学物質過敏症も知られておらず、病院に行っても原因が分からないままの日が続いた。何となく調子が悪い程度だったのも、ついには体が痛くて動けない。「外から見ても何もないので、理解もされにくく、病院でも『そんな病気はない』と言われて」。そして1年後「化学物質過敏症」だとやっと診断がついたが、同時に「治療法はない」という現実を突きつけられる。この頃には、とても普通の生活はできなくなってしまっていた。

 

豊田市の山間地での1年。そして設楽町へ

このままここにいても、どうにもならない…。そんな杉浦さんに、救いの手を差し伸べてくれた人がいた。「豊田市の山間地に使える家があるから、そこで暮らしてみる?」。当時住んでいた岡崎市よりは田舎で、人も少ないところだ。さっそく暮らし始めると、明らかに体調が良くなった。

「歩けない状態だったのに、歩けるどころか走れるようになりました。環境の良いところで暮らすことが、これからの自分には必須。足助で1年過ごさせてもらう間に、どうしたら田舎で暮らしていけるか考えるようになりました」

そこで杉浦さんは、地域おこし協力隊への応募を考える。「今の自分の体力で引っ越すには、近くがいい。その時近くで募集していたのが、設楽町でした」。縁を感じて応募し、化学物質過敏症であることなど事情を話したうえで採用された杉浦さん。地域おこし協力隊の任期は3年。ここで暮らし続けていくには、その後も何か仕事をしなければいけない。それを考えながらの日々が始まった。

 

お茶の種から、油がとれないか

ここで、化学物質過敏症で田舎へ移住する前の、杉浦さんのことを少し書いておこう。なぜなら、その時携わっていた仕事が、杉浦さんの今の事業にとても生かされているからだ。愛知県知多市で生まれ育った杉浦さんは、小さなころから「研究」するのが好きな子どもだった。特に興味を持ったのが植物。大学院の博士課程として基礎生物学研究所に勤務し、研究開発の仕事にまい進していた。そんな研究者としての「目」をもった杉浦さんだったからこそ、気づけた「お宝」が、設楽町にはあった。

設楽町の地域おこし協力隊になり1年目。地区をまわる杉浦さんの目に映ったのは、たくさんのお茶の木だった。

 

「実際に咲いているお茶の花、実や種を、初めて見ました。そこらじゅうになって、すごい生命力だと感動したのを今でも覚えています。よく見ると、つくりは椿と似ている。これで何かできないかなぁと、思いました」

「椿と似ている、これで何かできないかなぁ」-これがまさしく、研究者だからこその目だった。このまちで、お茶の実や種が商品として何か利益を生み出すなどと考えた人は、おそらくこれまでいなかった。だが植物の研究をしてきた杉浦さんは違った。「お茶の種から、油がとれるんじゃないか」。杉浦さんの研究者魂に火が付いた。

 

「自分のような人が求める化粧品ができる!」

お茶からとれる油の成分を調べていくと、スキンケアオイルとして良さそうなことが分かった。

「悪いものが入っていない、刺激になってしまうものがない、油のバランスが人の肌にとても近い、自然な形で保護してくれる。ビタミンEやカテキンも含まれているし、抗酸化作用も高い。マイナスな部分がなく、良いところがたくさん見つかりました」

それは杉浦さん自身にも、嬉しい研究結果だった。アトピー性皮膚炎に悩まされ続けてきた杉浦さんの肌には、ステロイドが必須だった。かゆみが取れずについかきむしって血だらけになったり、瞼が腫れて目が開けられなかったりした朝も一度や二度ではない。

「肌が薄くなってしまい、少しの刺激にも反応してしまう。そんな肌に合う化粧品ができれば、自分にも、同じような人にも希望になると思いました」。

お茶からとれたオイルをさっそく自身で試すと、肌荒れが無くなり、明らかに調子が良くなっていった。これまでは水に触れるだけですぐにボロボロになり、常に手袋をしないといけなかった手の荒れも、引いていった。

 

 

 

「山の搾油所」、はじまる

地域おこし協力隊の任期が終わりを迎えた約4年前。杉浦さんの気持ちは固まっていた。「お茶のスキンケアオイルで起業して、この地域で暮らし続けていきたい」。前職での実績があったことも大きく、個人で化粧品としての製造販売許可を取ることができ、起業。「山の搾油所」と名付けて、杉浦さんの第2の設楽町ライフが始まった。

 

試行錯誤を繰り返しながらも、杉浦さんならではのこだわりの商品ができた。効率は悪いが油の劣化を防ぎやすい「低温圧搾」という方法を採用。薬剤なども使わずに、無添加の油を商品として送り出せる。大手で流通している油の大半が、溶媒=溶かし出すという形での製造を行っているなかで低温圧搾を選んだのは「自分のような肌で困っている人に、本当に役立つものを」という想いが強かったからだった。

この小さな規模で、本格的に商品づくりが行えるのは、杉浦さんの前職の知識やネットワークがあるからこそ。今では、オリジナル商品の製造以外にも、植物の油をとってほしいという依頼が全国から来るようになった。

「ひまわり、アマニ、ごま、椿など、いろいろ来ますよ。やはり研究好きですから、いろんな油を扱ってみる機会は面白いですね」

 

 

 

起業して変わったこと

 これまで研究職で働いてきた杉浦さん。起業して4年目となった今も「いやぁ、起業が自分に合っている気はしませんねぇ」と笑う。

「できれば研究だけやっていたいけれど、そうもいかないですから。でも、自分で起業して、ひとりで事業をやるならではの良さもたくさんありますよ」。

その一つが、自分で時間の使い方を決められることだ。

お茶の花は10月に咲き、その翌年の同じ時期に実がなる、つまり種が取れる。その時期はとても忙しいが、お茶の木の生育サイクルが決まっているということは、それに合わせて年間スケジュールが立てやすいということでもある。

「繁忙期以外は、地域の中で役員や消防の仕事を積極的にやったりしています。この町に来て、仕事以外にも、いろんな人生の生きがい、やりがいを見つけました」

 

 

3歳の息子との今が、幸せ

設楽町に来てからで出会った女性と結婚し、そのまま設楽町に住んでいる杉浦さん。夫婦とも設楽町の出身ではないが、地域に根付いて暮らす中で、3歳になる息子さんは地域のおじいちゃん、おばあちゃんの人気者だ。

「小さい子どもを久しぶりに見たよ、ってかわいがってくださいます。おかげで人見知りの息子は、お年寄りと仲が良くて、見慣れない若い人がちょっと苦手な感じに育っています(笑)」。

妻はフルタイムで働いているため、保育園の送り迎えはもっぱら、杉浦さんの仕事。車で5分のところにある保育園には今、8人の子が通っている。杉浦さんの住む田峯地区からは2人。

「保育園が近いというのは、本当にありがたいなと思っています。向かいにコンビニもあるし、新城までも30分で行けますし、ここは住みやすい環境だと思いますね」。

ただ、一番近い小学校の児童も、今の児童数は8人。不安もある。

「この小学校がいつまで続いてくれるのかは分からない。廃校と隣り合わせという危機感はありますね」

そうした不安があるものの、杉浦さんはこの環境の中で子育てができることを心から幸せに思っている。

「自分の体調も良いですし、子どもは広い田舎道を、いつも元気いっぱい走り回っている。仕事を調整しながら、保育園が終わる時間からはずっと子どもと一緒にいられる今を、大切にしたいなと思っています」

実は起業して1、2年目の頃、杉浦さんは今よりも事業にのめりこんでいた。事業の拡大や発展を思い描いていたし、お茶の効能について、研究発表などもしていた。だが今は、少しペースを落とし、仕事に取り組んでいる。

「やはり、子どもの存在が大きいですね。今は、今しかないから。それを見逃したくないなと思うんですよね」

 

 

同じように過敏症で苦しむ人に

杉浦さんはこれまで、アトピーや化学物質過敏症のせいで辛いことも多かったはずだ。だが、その辛さと就職した研究職、どちらかが欠けていたら、設楽町での「山の搾油所」は無かっただろう。運命の糸というのは、後から見てみると実にきれいにつながっているのだと感心せずにはいられない。

「化学物質過敏症で辛かったときは、同じような人たちのためになることをしたいと思い、そうした活動も実際してきました。でもやはりそれ自体を生業にするのは難しかった。今は、同じような過敏症の人にここでの暮らしを伝えることもできているし、化粧品で力になることもできる、自分で作ってみたいと言われれば教えることだってできる。この暮らしにたどり着く間に、過敏症の人の役に立つことがいろいろとできるようになったんだなと思います」

次の週末も、化学物質過敏症の人が、杉浦さんを訪ねて会いに来ることになっているそうだ。「私がここで体調を保ちながら、暮らしや仕事を続けていくことで、『こういった生き方もあるんだよ』と伝えられるのは、それだけでも意義があると思います。自分の体調と相談しながら、【半農半X】のようなイメージで、子育ても仕事も地域のことも、やっていけたらなと考えています」

肩の力の抜けた杉浦さんの姿は、自然体でバランスが良い。自分のペースで、自分らしく生きられるという実感がまた生きる力を強くし、毎日を輝かせるのだろう。そこに山の空気が大きく寄与していることは、まぎれもない事実だった。

 

 

インタビュー:佐治真紀  執筆:田代涼子  撮影:中島かおる

 

 

 

ページトップ

menu