環境教育だけでなくactionを
自分が動けば、地域を変えられる!
岡崎城下を流れる乙川によって「町と森が一つになった」と言われる愛知県岡崎市。乙川の源流域に当たるのが、額田地域だ。町内の面積の87%が山林。旧額田郡の4つの村が合併し、額田町が発足。その後2006年(平成18年)に 岡崎市に編入した。町内には、東三河で一番高い山 本宮山があり、辺りは本宮山県立自然公園に指定されている。南西部には、乙川の支流である男川の源となる くらがり渓谷があり、最近では、快適な穴場のアウトドアスポットとしても人気がある。
くらがり渓谷から、急勾配の千万町(ぜまんぢょ)坂をぐーっと登りきったところにある千万町町を拠点に林業を営む「一般社団法人 奏林舎」代表理事の唐澤 晋平さんにお話を伺った。
額田の生活のスタートは鳥川ホタル学校から
取材の待ち合わせ場所は、岡崎市が運営する鳥川(とっかわ)ホタル学校の前。普段はホタルの保全活動を行ったり、他の地域でホタルの保全活動を行いたい方に指導を行ったりしている。ホタルをはじめ、地域の自然を学ぶ場でもある。唐澤さんは、2014年8月に額田町に移住。移住して3年間は、ここ鳥川ホタル学校で週に4日ほど嘱託職員として、学びの場を企画運営し、環境教育を担当していた。
「僕は、もともと専門学校で自然体験の指導や企画運営について学びました。
今でこそ林業に携わっていますが、その当時は林業を学んでいたわけではなく、むしろ殆ど知らないぐらいでした」
唐澤さんは、愛知県の幸田町生まれ。母親が理科の教員をしていたので環境のことに関しては、比較的関心の高い家庭だった。唐澤さんはご両親に連れられて、よく額田町に遊びに来ていた。
自然の中で目いっぱい遊び、ものすごく楽しかったという原体験の場所が額田町だった。
一つ目の方向転換
「高校卒業後は、一度情報系の大学に進学しました。 当時はITバブルの時代。情報系は勢いのある分野でしたが、これが本当に自分のやりたいことか? と疑問に思い、そこで立ち止まってしまいました。自分は何がしたいのか? を改めて考える中で、当時、大学のサークルで経験していた山歩きにも影響を受け、自然や環境の事を人に伝える仕事をやりたいと思うようになりました」
ITから環境教育に進路を変更。大学を辞め専門学校に入り直し、自然体験活動やキャンプの指導、それらの企画運営、環境の基礎知識など環境教育にまつわるさまざまな勉強をした。卒業後は宮城県のくりこま高原自然学校に就職し、そこで環境教育の指導を担当するようになった。
「在学中にインターンとして日本各地の自然学校に行きました。中でもくりこま高原自然学校の佐々木代表は日本の野外教育の本流といわれる筑波大学で学んだ方で、その考えが一番面白かったので、思い切って宮城県まで行くことにしました」
念願の環境教育に携わり始めると、フィールドとして里山を利用することが多くなった。 里山に入ってみると、自然と山が荒れているのも目につくし、若い人がいなくなっているのも気になった。
林業との出会いは、自然学校を通じて
そのころ、くりこま自然学校の佐々木さんが、木材利用や林業の人材育成などをする団体を設立。 そのプロジェクトは、森林資源を活かして地元の雇用を作っていこうというもので、唐澤さんはそれらの事務局を担当。そのころから徐々に、山のことを知るようになり、図らずも林業に触れることになった。
「環境教育というのは非常に重要な一方で、なかなか成果が見えづらいものです。 チェンソーを持って間伐をやると、やった分だけ、環境が改善されるのを実感できる。 林業なら、多少なりとも地域の経済も回っていくし、自分の生活も成り立つ。これをやりながら環境教育をやる方が、色々な面で良いと自分なりに考えました」
宮城県で林業と出会い、結果がすぐ現れるという点が、それまで唐澤さんが抱えていたもやもやを吹き飛ばしてくれた。5年半宮城県で働き、愛知県に帰郷。 宮城県では、林業そのものより、様々なコーディネートの手法を実践から学んだ。
二つ目の方向転換で林業を志す
「愛知県へ戻って、林業をやっていこうと決めたけど、すぐに林業に従事しなかった。 移住した時から3年間は鳥川ホタル学校で、週に4日ぐらい働きながら環境教育の企画運営をしていました。 そして、空いた日に自分でチェンソーなどの道具をそろえて行き、少しずつ林業を始めました」
移住にあたり別の地域も候補に挙がったが、もう既に盛んに地域づくりが行われている地域よりも、若いIターン者が少ない場所で地域の力になってみたいと考え、親族の紹介で、額田町に移住することにした。
初めての地域で林業をスタートするとなると、森林組合等の事業体に所属するという方法を考える人が多いが、唐澤さんは「自分は違う角度でやってみよう!」と考え、3年の準備期間を経たのち、2018年「一般社団法人 奏林舎」を設立した。
「そもそも担い手の少ない分野ですから、参入はしやすいと思いますよ。リスクは少ないと思います。まあ、リターンも少ないですが」
従業員一人と、たまに手伝ってくれる友人をメンバーにして、スタートを切った奏林舎。 その時の従業員は、地域の製材所を引き継ぐことになり退職したが、入れ代わりに、製材所で働いていた方が奏林舎で働くこととなった。 会社としては、今後はもう一人ぐらい若手を雇用したいと考えている。
目指すスタイル
「規模を大きくするつもりはないですね。 大勢で働きたいなら森林組合に入った方がいい。 せいぜい4~5人の規模が、僕の目指しているスタイルです。事業内容も変えるつもりはありません。 間伐を行いながら、間伐した木をどのように使っていくかという部分のコーディネートして、この地域の木材が広く住宅資材として使用されるような取組をスタートしています。そして、環境教育として山の現状を多くの人に伝えていきたいです」
現在、奏林舎では「リタウッド」と名付けた木材のフェアトレードに取り組んでいる。
(奏林舎HPより引用)
岡崎市額田地域は、明治期から植林を進めてきた歴史ある林業地だ。枝打ちを行い、山主が手塩にかけて育てたヒノキは、節のない高品質であるにも関わらず、本来の価値に見合わない価格で取引されているのが現状。山主に適正な価格が支払われてこそ、次の世代の森を育てることもできると考える唐澤さんは、自分が間に入ることで、山主に通常の倍もしくは3倍の対価が支払われるよう、この仕組みを考え出した。
実際に、街中のショッピングモールに使用されるなど、徐々に認知は広まってきている。
(写真は唐澤さん提供)
環境教育の重要性を知り、幼児期の体験の大切さを身をもって知るからこその取り組みも行っている。唐澤さんは、名古屋市を中心に学童クラブの木造化を推進している「森と子ども未来会議」に参画。2020年7月に木造で建てられた名古屋市緑区の「あおぞら学童クラブ」には、額田地域の木材が使われている。
(写真は唐澤さん提供)
この春には、学童保育の関係者が山に来て、間伐体験や製材所の見学を行った。木材を買ってもらうだけでなく、森林のことを学び、山側の想いや課題を知ってもらう機会も設けている。
これからは、もっと色々な人に林業に従事してみたいと思ってほしい。しかし、そこには、収入面での課題があることも事実。唐澤さんはその部分を何とか変えていきたいと考えている。田舎で暮らしていくには十分なくらいの収入が得られるようにしていくことが、当面の目標だ。
これから、自分も林業を始めてみたい、と考える方に向けて、普段の生活をお尋ねした。
森の仕事、地域の仕事、環境教育、すべてがつながっている
奏林舎は、基本的に土日祝日が休み。 月曜から金曜の8時から17時が勤務時間。 愛知県内初の「森林経営管理制度」を導入した岡崎市木下町の森林の施業が主な仕事である。「森林経営管理制度」とは、手入れの遅れた民有林を市が集約化し、その中で林業経営に適した森林を「意欲と能力のある林業経営者」に再委託し森林経営を行うもので、奏林舎が仕事を引き受けている。月曜の朝は、週初めのミーティングをして、その週の予定を皆で確認。 雨の日は薪作りを行っている。唐澤さんは個人的に、土日は環境教育のイベントを実施したりする、村の草刈りに参加する時も。畑仕事をしたり、たまった事務仕事をしたりと週末も忙しそうだ。
年間のスケジュールとしては、9月から3月が伐倒のシーズンだ。だからいって、夏は仕事をしない、という訳ではなく、切り捨て間伐をしたり、品質に関係のない伐倒を行ったりしている。
岡崎市額田地域に移住して7年目の唐澤さん。すっかり地元に馴染んだ様子だ。
「もう、落ち着いたもんですよ(笑) 仕事も生活も慣れてしまえば、7年も経ったのか、という気持ちです。 額田は人も良いし、集落には非常に快く受け入れてもらえたので本当に良かったです」
「まあ、移住してみれば、何とかなりますよ! 中山間地域って意外と仕事があるものなんですよ。 うちの嫁さんなんて、新聞配達のバイトもするし、地元のカフェのバイトもするし、各方面からいろいろ頼まれてます。 そういう意味では、生活が立ち行かなくなるということは、まずないですね。 食べ物も何かしら手に入りますしね」
中山間地域=仕事がない、というイメージがあるが、それはどうやら違うらしい。
「一つ言えることは、田舎は関係が深いということ。 村のお付き合いとか、お祭りとか、消防団とか。 こういうお役は基本的にここでの生活と切り離せません。 そういう関係を持たないと『田舎に住んでいる都会の人』になってしまいます。 お付き合いが要らないということは、得るものも得られない、ということになります。 お付き合いする中で、助けてもらったり、こちらが助けてあげたり、ということが生まれてくるのです」
今回、取材でお邪魔した場所は、孫の自宅新築のために、祖父の山の木を伐り出しているという現場。 こういう依頼が舞い込んでくるのも、普段から地元のお役をしっかり務め、信頼されているからこそ。
木はこれからも残っていく
SDGsがこれだけ叫ばれるようになってきた今、もう一度、木の持つ環境的な価値は少なからず評価されていくと唐澤さんは信じている。それは、他の素材が持っている生産コストと比較しても、木は優位性があり、その点からも、必ず残っていくと唐澤さんは考えている。ただ、木の価値が正当に評価され、材として広く普及し、森が持続可能な状況になるまでに、時間がどれだけかかるかわからない。
「僕はこれからも地域の林業従事者として、額田の木の宣伝マンとなって、額田の木が多くの方に利用されるよう、尽力していきます」
唐澤さんの脳裏には、幼い頃、額田に遊びに来て楽しかった記憶が映像として鮮やかに残っている。 そんな原体験、原風景に導かれてやってきたこの場所で、自らのスタイルに基づき行動を起こしている唐澤さんなら、ともすればいつかは止まってしまうかもしれない林業という名の時計の針を、少しづつ進めることが出来るのかもしれない、そんな風に感じた。