お問合わせ
あいち田舎暮らし応援団

あいちの山里暮らし人だより

~Michi~

Vol.35

「1つ1つ違うから面白い」

林業に生きる高田佳宏さんの20年

森林組合の作業班の中で最年長とは思えないほど、フラットで親しみやすい雰囲気を持つ高田佳宏さん。

東栄町森林組合で伐採を担うようになるまでに、20代は想像するのも痛々しいほどの大変な苦労があった。

移住の経緯と、今後の目標などのお話を伺った。

「大工になろう」ものづくりの原点を思い出した瞬間

 

高田さんは名古屋市名東区で生まれ育つ。

小さな頃から物作りが好きで、特に絵を描くことに興味があった。

デザインに近いということから、工芸高校の印刷科へ進学し、そのまま印刷会社へ就職。

満員のバスや電車を乗り継ぎ、夜11時まで仕事をして終電で帰宅する毎日だった。

夢中になって仕事をしていた2年後、印刷業界に激震が走る。

 

「MacやWindowsが出てきて、印刷業界も変わったんですよね。

今でも覚えているんですけど、地下鉄の終電間際にぼーっと立って、このままでいいのかなと思って」

 

日の光も浴びず、体力も減っていく職場環境にも疑問があった。

 

「その時、あっ、大工になろうって思って」

 

祖父が大工だったこともあり、昔から憧れていた仕事だった。

物作りに対する情熱が思い出され、何かを生み出すことへの好奇心がうずいた夜だった。

名古屋での大工修行のスタート

 

高校時代の先輩や先生などに相談し、紹介により名古屋で大工修行をスタートする。

しかし、最初の1年間は掃除ばかり、道具も触れることもなく、毎日怒鳴られてばかりの厳しい環境だった。

 

「尺も寸もわかんない人間だったんで。

本当に1からの大工で、道具の名前すらも知らない。忍ばせた手帳にちょこちょこメモして、覚えていく感じでした」

 

1年経ってようやく、下地材を手ノコで切ることが許された。

喜んだのも束の間、さらなる大きな試練が、高田さんを襲った。

 

20代の苦悩と再生

 

最初の苦難は、大工仕事中に屋根から落ち、背骨を骨折したことだった。

さらに作業中に急に視界に異変を感じ、病院に行くと網膜剥離と診断された。まだたった23歳、持病のアトピー性皮膚炎が原因だった。

その後、大工や建築金物など職場をいくつか変えるも、アトピー性皮膚炎はどんどん重篤化、目は悪化のたびに、10回近く手術を繰り返し、心身ともに疲弊していった。

憧れの大工仕事も、粉塵が体全体に降り注ぐため、目にとっても良い環境とは言えなかった。

 

「20代の頃は本当に辛かったですね。今は親に感謝してるけど、自分も相当ひどいことを親には言いましたし、親も泣いたのを覚えてます」

 

苦しい毎日で紆余曲折の末、全く違う角度から、高田さんは導かれるように次なるご縁に出会うことになる。

試練を超えた先に見つけた新しい道

 

体調に苦しむ最中、東栄町はいい町だ、お前も来い、としつこく誘ってくる友人がいた。

根負けして一度遊びに行くことにした先で、当時森林組合で働いていた方と出会う。

これが後に、人生を変える出会いとなった。

東栄町に遊びに行った1年後、度重なるアトピー性皮膚炎と目の不調により限界に達した時、とうえい温泉がアトピーに良い、という話を聞いた。

すぐに森林組合の方を思い出し、電話をかけた。

「今から行っていいですか?」という急なお願いを、即了承してくれた。

その日から名古屋を離れ、東栄町での療養が始まった。

療養して3ヶ月、アトピー性皮膚炎はみるみるうちに落ち着き、心身ともに調子が安定していくことが実感できた。

 

林業への転身

 

3ヶ月の療養期間を経て大工の現場に戻ると、粉塵で顔が真っ赤になり、すぐに病院に向かうことになった。

これをきっかけに、退職と移住を決意した。

移住を決めると同時に、森林組合の方から山仕事を一緒にやるか、と声をかけていただき、林業に従事することになった。

実家でそのことを家族に話すと、祖母から思わぬ事実を知らされる。

 

「実はひいお爺さんが、木こりだったんですよ。不思議な巡り合わせというか、縁というか…ご先祖さんがやれって言っとんのかなと思いましたね」

 

運命に、そっと背中を押されている気がした。

こうして導かれるようにして、高田さんは林業に就いた。

 

やって深まる、林業の面白み

(高田さんからお借りした写真)

 

就職後、最初は下草刈りからスタートし、徐々に伐採作業を任されるようになった。

 

「主に夏は草を刈って、冬は木を伐って…季節によって仕事が変わるんで面白いですね。

山もそれぞれ一山一山ごとに違うし、木も違うじゃないですか。飽きないですよね、全然」

 

それだけではない。

大工として木材を捉えてきた経験が、木を切ることの面白さを引き立てた。

 

「木材を元々扱ってた人間が原点に帰って面白いなと思って。大工の知識が林業でもすごく生かされました。尺も寸も同じなんですよね、当たり前ですけど(笑)それに、この木材が何に使われるか、把握できるようになって。梁だったら寸目でとか、木の名前もわかるし。全てが繋がってるなと思いました」

 

大工で修行したことを、林業の現場で生かすことが出来て、知識が知恵に変わっていく手ごたえを感じた。

数年前、東栄町で伐った木が名古屋市内の幼稚園の一部に使用され、そこに招待されたことがある。自分の伐った木が活かされている様子を見るのは、なんとも嬉しく誇らしいことだ。

(高田さんからお借りした写真)

 

後輩を見守り、育て手へ

 

森林組合では最年長の高田さん。今後、目指すところはあるのだろうか。

 

「林業は難しい仕事だと僕は思うんです。だって、木は一本一本違うから。

だからずっと勉強ですね。あとは、技術を後輩たちに繋げていきたいです。

自分のできる範囲ですけど、若い子たちの技術指導も役目かなと思っています」

 

自然の中で仕事をするというのは居心地が良い、と語る高田さん。

丁寧に、しかし時には厳しく指導するが、チーム全体の雰囲気はとても和やかで、新人たちも着実に成長している様子だ。

 

「僕も色々な先輩方や森林組合のフォローのおかげで、仕事が続けられたと思っています。今どきの後輩はよく動くんですよ。

まだまだ自分も頑張らないとって思います」

 

毎日後輩から刺激を貰いながら、更なる自己研鑽に励んでいる。

昔、大工仕事で厳しくも温かい教えを受けてきたからこそ、人材育成の大切さは身に染みている。

林業の現場でも先輩から背中で教えていただいてきた。今度は、自分がしっかりと後輩を育てる番だ。

アトピーとの辛い経験が、今の職場に導いてくれた。

高田さんはこれからも温かく後輩たちを育て、見守っていく。

 

 

 

*****************************

 

インタビュー・執筆:白井美里  撮影:木浦 幸加

ページトップ

menu