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あいち田舎暮らし応援団

あいちの山里暮らし人だより

~Michi~

Vol.25

農業をツールに。歴史探訪、かき氷屋さん、農家レストラン…広がる夢。

ミニトマト農家からはじめて10年。生田智美さんが描く、農家だからできる次の夢とは。

「こっちで農家レストランでもやらん?」という母の言葉で戻ってきた、新城市作手(つくで)の実家。ミニトマト農家からはじめて10年が経った。生田智美さんは今、農家だからできる次の夢を描く。「とにかく出たくてしょうがなかった」田舎のまち。その良さを感じる年になり、新城の魅力を伝えたい気持ちに突き動かされて進む毎日だ。

 

 

「探検ごっこ」に明け暮れた子ども時代

 

新城市作手地域(旧作手村)で生まれ育った生田智美さん。「探検ごっこ」が大好きな子どもだった。一番のお気に入りは、魚が泳ぎ、沢ガニがいる小川。近所の子と朝から晩まで走り回ったあの頃のワクワクした気持ちを、今も覚えている。

でもそれは、成長するにつれてつまらない日常になっていった。「周りを見渡しても山ばかりで、どうしてもこの田舎から早く脱出したい!と思うようになりました。自然の恵みは自分にとって当たり前すぎて、そこに魅力を感じられなかったんです」

 

 

高校卒業後、岡崎市の短期大学に進学。栄養士の資格を取った。そのまま地元には帰らず20年。アパレル業などで生き生きと仕事をしながら暮らしていた40歳過ぎのころ、実家の母親から電話がかかってきた。「あんた、そろそろ帰ってこれば?」

 

「農家レストランでもやらん?」と母に言われ

 

 母親はこう続けた。「お父さんの建ててくれた百姓小屋で、農家レストランでもやればいいじゃん」。その言葉にふっと、生田さんの心が動いた。「短大で栄養士の資格も取ったし、食事を作って食べてもらうのも好き。農家レストラン、うん、楽しそうかもと思ったんですよね」

 

 

正社員で勤めていた会社を辞めて実家に帰り、まずは岡崎市にある農業大学校に通って9か月学んだ。実家の敷地にビニールハウスを建て、ミニトマト農家としてスタート。「農家レストランがしたくて帰ってきたのに、なんでミニトマト農家になってるの?ってよく言われます。母がね、言ったんですよ。農家レストランというからには、まずは農家にならないといけないんじゃない?って。ほんと、上手いですよね(笑)」

 

レストランを始めるはずだった生田さんは農業を始めると、日々の農作業に追われ農家レストランどころではなくなってしまった。「トマト2棟で、1800本。自分だけじゃ手が足りないくらいの量なんです。それに、農協に出しているんですが、かかる時間のわりに収入がままならない。時間はかかる、収入は少ない。このままじゃ良くないぞ、といろいろ考えるようになりました」

 

ミニトマトジャムでかき氷屋さん

そもそも、農家レストランをやろうかと思っていた百姓小屋も、先客がいた。「母が、味噌づくりや豆腐作りの体験教室を不定期に開いていて。ファンもいてくださるんですよね。母が体調を崩した時に私も手伝って、今では近隣に嫁いだ妹が手伝いに来てくれて、一緒にやっています。その辺の調整もしないとレストランはできないし、4月から11月頃まではミニトマトの栽培や出荷で今は手一杯。冬だけ動けてもね…」

 

そんな状況ではあったが、それでもできることを模索するのが生田さんの逞しさ。「露天商をとって、今年はかき氷屋さんをやろうと思っているんですよ」。ミニトマトそのものだと栽培から出荷までのんびりできないが、ジャムなら多少、時間の融通もきくし、日持ちもする。加工品として販売する傍らで、夏はかき氷にかけて観光客などへの呼び水にしようという考えだ。「まず何より、楽しそうでしょ。ここは水がいいから、かき氷は絶対に美味しい。トマトジャムとも相性が良いですし。加工品にすることで、廃棄を減らせて商品価値も上げられます」

 

コロナ禍がくれた、予想外のお土産

 一方、「人手が足りない」と困っていた農業には、思わぬ助っ人が現れた。姪っ子が作手で農業をやりたいと言い出したのだ。「今20歳になるんですが、岡崎のブルーベリー農家で、働きながら学んでいます。この子の農業へのきっかけが、面白いんですよ」。高校は商業科へ進み、農業へは全く興味を示さなかったという姪っ子。2020年、コロナ禍で2ヶ月ほど学校が休みになったときに、生田さんのもとへ手伝いに来た。すると「このままどこかに就職するより、農業大学校に行って農家になろうかな」と言い出したのだという。

「朝起きて、トマトを収穫して、出荷して、それで収入を得て暮らしている。これって企業の社長さんと一緒じゃないかと思ったみたいで。働き方として面白いと感じたようです。これまではおばあちゃんの野良仕事くらいにしか見えていなかったのが、目覚めちゃったみたい。大変とか汚いとか言って農業をやらなくなっていった私たちの世代とは、また違うものの見方ですよね」。まずは甘えないように外で勉強、3年後くらいを目途に、徐々に引き継いでいけたらと生田さんは考えている。「若い子が若いうちに農業に入ってくれるって、いいことだと思うんです。感覚が違うから、農業ってこういうものっていう概念も変わっていくといいなと思っています」

 

歴史探訪を発表する場

生田さんには、農家とは別にもうひとつの顔がある。それは歴史の案内役。作手の「ふるさと探訪」と名付けた研究報告を自ら企画し、もうすぐ3回目を行う。「誰も来てくれんかもと思っていたけど、1回目も2回目も30人ぐらい来てくれて。それも、近所だけでなく、名古屋や岡崎からも。歴史はマニアの人がいっぱいいるから。そこから、作手の魅力が伝わっていくのもいいですよね」

 

「こっちに徳川のお城、向こうは武田。900mしか空いていない。敵同士がこんなに近くで、ここで睨み合ってね…」と、話し出すと止まらない。さすがアパレルの正社員をしていたころから「接客が天職」と感じていただけあって話し上手。臨場感が伝わってくる。「史実に基づいた推理だからって言いながら話すんです。もう自分の頭の中が大河ドラマ。ゲームとかアバターとか流行っているけど、現地で空気を感じて想像することこそ、究極のバーチャルだと思いません? 面白くてたまらないです」。最近は村誌まで読んだり、研究報告の解説のパワーポイントを自作したりと、さらなる意欲でいっぱいだ。

 

作手の魅力を、語って伝える人になりたい

 ミニトマト農家だけでも大変なのに、母親と体験教室を開いたり、歴史案内をしたり、かき氷屋さんを考えたり。次々とアイデアが浮かんで、また実行力もある。その傍らで、後継ぎを考えていたり、付加価値をつけるなどの経営面も考えていたり。生田さんの脳内はかなり活発で忙しそうだ。そんな姿の理由を聞くと、「飽き性だから、同じことをやっていられないんです」と笑いながらも「農業はツールだと思っている」と、核心をつくひと言が来た。

 

「20年ぶりに作手に帰ってきた時、自然や人の魅力に気付けました。そこで自分たちが幸せに暮らし続けていこうと思ったら、もっと人に来てもらい、楽しんでお金を落としていってもらわないと。その仕掛けをつくるひとつのツールが、農業です」

 

また農業に携わることは、一度出ていった自分をまた地域に受け入れてもらうためにも必要なことだったと言う。「農業の良さは、地域に根付いていること。毎日トマトの栽培をする姿が見られるから、あぁ、智ちゃん頑張っているねって感じてもらえて、だからこそ、私はこんなことやりたいんだ、って作手の人たちに話せるようにもなりましたね」

農家として地に足をつけながらも、自分らしいやり方で作手に人を呼び、魅力を伝えていく生田さん。「作手の、見えていない魅力を見える化すること。それには語ることが大事です。だから私は、作手の『語り部』になりたいですね」。誰よりも楽しそうに話す語り部にはきっとファンがつき、何度も足を運んでくれる人が増えていくだろう。明るく笑う生田さんは、秋の作手に吹く風のように爽やかだった。

 

 

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インタビュー:佐治真紀 執筆:田代涼子 撮影:中島かおる

Information

野菜の力tomoさん農園

〒441-1414  愛知県新城市作手清岳ジロエ畑8

URL:http://tomosannouen.com/

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