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あいち田舎暮らし応援団

あいちの山里暮らし人だより

~Michi~

Vol.23

Iターン創世期に千葉から移住、林業へ。 25年経っても「もっと上手くなりたい」。

森林組合職員からひとり親方へと形を変えながら林業に携わり続けて四半世紀を過ごした今、思うこと。

「Iターン」という言葉が生まれ、田舎暮らしにあこがれる若者が出始めた1990年代。芦沢潤さんは自然を求めて、妻とともに東栄町へやってきた。以来25年。森林組合職員からひとり親方へと形を変えながら林業に携わり続けている。四半世紀を過ごした今、どんなことを感じているのだろうか。話を聞いてみた。

 

都会のサラリーマンを2年半でやめる

芦沢さんは千葉県柏市の出身。大学で機械について学び、卒業後は東京にある上下水道のコンサル会社で勤務していた。のちに妻となる人も、同じ職場で働いていた。仕事は、浄化センターや下水処理場などの設計。行政の大きな施設をつくるために、人口計画、工業用水、農業用水など多くの資料を見ながら、未来を考え図面を引いていく。

 

「僕が働き始めたのは1990年代。当時は街中の下水はほとんどが整って、下水道を田舎にもどんどん広めていくような時代でした。毎日遅くまで仕事をしながら、世の中を便利に、効率よく、変えていく。でもそれは、本当に必要なことなのか? 高知県出身だった妻も同じように感じていたところがあり、二人して、この仕事の方向性でいいのかなと違和感を持ちながら、仕事を続けていました」

そんな芦沢さんの頭に浮かんできたのは、少年時代の懐かしい風景。

 

「カエルやザリガニをとったり、水辺で魚釣りをしたり。自然の中で遊んで大きくなってきました。もっと自然を感じて暮らしたい。思い切って仕事を辞めることにしました」。

東京・銀座という大都会でのサラリーマンを2年半でやめ、芦沢さんは日本各地を旅してまわった。職もない中で、その後追うように仕事を辞めてきた奥さんと結婚。何もないところからのスタートは、ただ「自然の中で暮らす」というイメージだけがあった。

 

Iターンの就職情報誌で東栄町の森林組合へ

自然に関わりながらできそうな仕事を探す中、Iターン就職の情報誌で、東栄町を知る。

「家族6人でIターンをしてきて、生き生きと東栄町で暮らしている事例が、紹介されていました。自分は千葉、妻は高知。愛知県なら真ん中だし、6人でこんなに楽しそうなら、妻と2人なら何とかなるでしょ、と」。そして芦沢さん夫妻は、東栄町へとやってくることになった。

 

引っ越してきた芦沢さんたちは当時、珍しがられる存在だったようだ。「なんでまたこんな所へ?って。変わりもんが来た、というような感じでしたよ」と芦沢さんは笑う。それにはおそらく、林業の時代背景も関係していた。全国的に間伐が不十分で、林業が世間から見放されたような扱いを受けていた頃。芦沢さんのように20代で林業をやりたいなどという人間は、ほとんどいなかったという。

「50代以上の人ばかりで、それより若い人間はいない。世代間にぽっかりと穴が開いた状態でした」

 

「体が覚える」という感覚に魅力を感じて

年の離れた先輩たちに指導してもらいながら、芦沢さんの森林組合での日々が始まった。東京で働いていたころは終電まで仕事をして、満員電車に乗って帰るような日々。それがこちらでは、朝7時半ごろに集まって現場に行き、午後4時ごろには仕事が終わっているというペース。生活習慣ががらりと変わった。

「こんなに明るいうちに帰ってきちゃっていいのかな、と不安に思いましたよ。翌日に疲れを残さないためにも、それで正しいんだと、今なら分かるんですがね」

 

現場では、何もかもが初めてで、覚えることばかりだった。

 

「いちいち教えてもらえないので、見よう見まねで覚えました。身につくまでには多少の苦労があったけど、面白かったですね。毎日、あっという間に時間が過ぎていく感覚でした。」

これまでは頭を働かせ、机の上で図面を引いていた。それが「体に覚えさせる」という感覚が面白かったのだという。

 

「思うようにいかなくても続けていると、やがて体が覚えて自然にできるようになる。それってなんだかいいなぁと。言葉で分かったり、短時間で分かることもあるけれど、時間をかけて、一緒にやらせてもらうことで分かったり、できるようになっていったことがたくさんありましたね」。

 

 

「丸太切りなんか、利口な奴がするもんじゃない」

森林組合でひと通りの仕事を覚えた芦沢さんは、そこで満足しなかった。ちょうど子どもが生まれ、もっと稼がなければと考えた時期でもあった。東栄町で「林業の神様」とも呼ばれていた青山百之さんのもとへ、弟子入り志願をした。

 

「青山さんは僕の30歳以上も年上の方で、ひとり親方。将来、こんな風になりたいと思うような人」。

 

半年後に希望が叶い、森林組合に籍を置きながら修行を始める。3年ほどのちには、森林組合を卒業。芦沢さんも青山さんと同じ「ひとり親方」として、自分だけの足で立ち、林業と向き合っていくことになった。

「青山さんについて働いてみて一番感じたのは、この人たちは木を、山を、とても大切に思っているんだということです。木を1本切るにも、できるだけ木が傷まないように、どこへ倒すのか、どういう順番で切っていくのか、理に適う形でベストを尽くす。『丸太切りなんか、利口な奴がするもんじゃない』って、青山さんは言っていたけど、そこには考え抜かれた知恵が詰まっているんだと、目の前で学ばせてもらえた。それは感動ですらありました」。

 

山を大切にする伐採の形って?

青山さんと働くようになって、組合にいた時よりももっと大きな木を、山の奥で伐採する機会が増えた。その時行っていたのが「架線集材」というやり方だ。山の奥で切った木は、トラックに載せられる場所まで運ばなければならない。ワイヤーを張って1本ずつ搬出するのが架線集材。一方最近では、生産性の向上を求めて、重機で先に道を作ってから木を切り、一度に木を降ろしやすくするやり方が主流となってきている。

 

「僕は青山さんに習ってきた、架線集材での伐採を大切にしたい。重機を使うのは、確かにパワーが違うし効率は良くなるけれど、こんな道の開け方しちゃっていいの?と、疑問を感じることもしばしばあるんです」。

 

ここ何年か、重機で道を開けることが増えた結果、雨が降るたびにそこを水が流れ、土が削られることで川が濁流になってしまうなど、マイナス面も見えてきた。山崩れを心配する住民も出てきて、今また架線集材が見直されつつあるという。

「皆、山を大切に守っていきたいという気持ちは一緒なんですよね。ただ方法論は時代とともに変わり、試行錯誤が続いていく。山を大切にできる伐採に、少しでも近づいていけたらいいなと思っています」

 

林業は大きな夢をもちながら、長く続けられる仕事

 

80歳まで現役を続けていた青山さんの姿を見てきた芦沢さん。自身も青山さんのような姿を目指したいと話す。

 

「何歳までやれるかは分からないけど、僕ももっと木を切るのが上手になりたいです。皆がため息が出るほど大きな木を切ってみるとか。誰が切れるんだこんな木!という時に、芦沢に任せようと思ってもらえるようなね」。なるほど、林業は男のロマンとつながっているようだ。

 

「こっちに来る前は、バイクが趣味だったけど、来てからは仕事が趣味というか。木が趣味、といえば良いのかな。息子の誕生日に、森に転がっていた木で椅子を作ったり、地域のお祭りで保育園の子が引けるような小さな山車を、仲間と作ったり」。

木を通して、地域とも上手につながっているようだ。

 

「縁もゆかりもないところから来たので、仕事も大事だけど、ちゃんとこの町の住民になりたいと考えていました。お祭りや消防団の活動も積極的に参加してきて、今もいい年なのに、まだ呼ばれます(笑)」

 

愛知県の山里へのIターンは珍しかった時代、自然の中での暮らしを求めてやってきた夫婦は、そのまま東栄町の林業を支えながら25年を迎えた。取材時、芦沢さんが「僕は先輩たちから話を聞く機会に恵まれていた」と何度も繰り返したのが、印象的だった。それを本当にありがたく思っているのだろう。「今度は僕が伝えていきたいね。もう少しやわらかく楽しく話せるといいんだけど」、そう語る少し照れくさそうな顔は、誠実さに満ちていた。芦沢さんが林業の話を届けられる次の世代に、この先できるだけ多く会えることを祈りたい。

 

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インタビュー:佐治真紀 執筆:田代涼子 撮影:中島かおる

Information

東栄町森林組合

〒449-0214 愛知県北設楽郡東栄町本郷南万場14−1

TEL: 0536-76-0531

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