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あいちの山里暮らし人だより

~Michi~

Vol.15

湯谷温泉で薪ボイラーを! 再生可能エネルギーの道を拓く

何がしたいかにこだわって生きてきたら、新城市にたどり着いたんです

1,300年の歴史を誇る、新城市の湯谷温泉。この温泉の燃料には、一部、地元の間伐材が使われている。中心となってこの仕組みを作り、会社を立ち上げて事業を担っているのが、大西康史さん。生まれは京都、大学卒業後は広島県庁で働いてきた彼が、なぜ新城市へ…?

 

 

原点は「知ってるつもり⁈」

 

「何がしたいかにこだわって生きてきたら、新城市にたどり着いたんです」、そう話す大西さんが今、新城市で、中心事業として行っているのは、湯谷温泉への薪ボイラーを使った熱提供。面積の83%が森林であり、間伐材の活用が可能なこの地域で、木を燃料に変えて観光産業の温泉街を盛り上げている。「ようやくここまで来ることができたなと、ホッとしています」と言う大西さんは、どのように育ち、考え、ここにたどり着いたのだろうか。

 

「生まれは京都です。両親、祖父母と3つ上の兄の6人家族。思い返せば父親が教育熱心だったなと思います。物心ついたころから学習塾に通っていましたし、見せてくれるテレビ番組は、教育系や動物系のものが多かった。その中で僕が夢中になったのが『知ってるつもり⁈』というテレビ番組でした」

 

「使命とは?」と自分に問うた進路選択

 

1989年から2002年まで、約13年間も日本テレビで放送された同番組では、歴史上の偉人を取り上げ、その人のヒストリーをじっくりと紹介する。司会は関口宏さん。記憶に残っている人も多いのではないだろうか。

 

「毎回、『人は誰しも、何か使命があって生まれてきた』というようなつくりで、ワンパターンなんですが、それに感化されて。自分も世のため、社会のため、役に立つ何かをやりたい、自分の使命とは何だろうか、と考えるようになったんですよね」

 

そして彼が自分の使命として学問に選んだのは「環境」。京都大学工学部にある「地球工学科」に進学する。「単純な話で、受験をするのに、国語が苦手で理系が得意だったんです。それに合った受験科目だったのが京大の工学部。ほかにも建築工学科や物理工学科などあったんですが、地球工学科は環境問題をとり上げていた。『社会のために』という視点でピンときて、ここを選びました」

 

座学に疑問、「京大ゴミ部」へ

 

京大で学ぶ大西さんの中に、ひとつの疑問が生まれる。「毎日、大学での座学だけで、何が変わるのか」という反発にも似た思いだった。「当時の大学といえば、知識を伝えるのが中心でしたから。せっかく、自分たちが今住んでいる地球の、環境のことをやっているのに、聞くだけで生かせない。もったいないなと」

 

チャンスは巡ってきた。3年生の1999年、同じ学科の先輩が「京大ゴミ部」という名の環境サークルを立ち上げる。

「画期的でしたよ。リサイクルがどうのこうのと言っている時代に、出たごみをどうするかではなく、ごみを出さない世の中をどう作るかを考えていく。そういう社会の仕組みづくりや社会への働きかけを考える。これだ!と思いましたね」

 

子どもを対象にした「チビッコ環境塾」や、大学内のゴミをどう減らすかを考える「ごみ箱プランコンテスト」など、活発に活動が行われていった。ひとつひとつは学生の小さな挑戦だったもしれないが、それは社会の一端を変えているとリアルに感じられる、確実な一歩だった。  

(ご本人提供資料)

 

広島県庁へ就職、三足のわらじの日々

 

 

大学院まで進み、卒業の時期。就職先として大西さんが選んだ職場は「広島県庁」だった。

 

「その頃はそもそも、今と比べて世の中に環境の専門職採用が少なかった時代。一般企業だと総務部門で長年働いてから、やっと環境の仕事ができるような状況だったので、はじめから専門性を発揮しやすそうな公務員を選びました。環境の専門職、しかもなるべく現場が見られるところで、と探して、ちょうどピタッと来る採用をかけていたのが、広島県庁だったんです」

 

縁もゆかりもなかった広島県へと引っ越し、勤めたのは9年間。当然、ただじっとしているだけの大西さんではない。県庁内で環境サークルを立ち上げ、個人でも広島の環境NPOに入って「環境三足のわらじ」生活に。それぞれの立場を生かしあって課題にあたった。例えば、県庁の環境部署に籍を置きながら、その本業では徹底できていなかったゴミの分別について、庁内サークルで「ゴミの見える化」を図り、ごみゼロオフィスを目指す。自身が所属するNPOでは、京都にある「環境市民」というNPOが行っていた、全国の市町村を対象にした「環境首都コンテスト」に参加する。このコンテストに新城市も参加していた。「新城市との出合いは、これがきっかけでしたね。ただ当時は、やる気をもって頑張っている町が、愛知県にあるんだなぁというくらいの印象しかなかったので、そのあと住むことになるとは思ってもみませんでしたよ」

 

退職、起業、そして新城へ

 

大西さんに転機が訪れたのは、県庁で働いて8年経った春。2つの出来事が起きた。1つ目は、3月11日。東日本大震災が起こり、福島県では原発事故が起こったこと。2つ目は、県庁内の異動で環境分野の政策に関われる「環境政策課」に異動したこと。

 

「県庁に入って8年、いろんな活動を仕掛けて、できることはやってきました。でも県全体の取り組みとか、もっと大きなところを変えていこうと思っても、なかなか上まで伝わらない。9年目の異動で環境政策に一番関われるポジションに移った後も、変わらなかった。僕が変えられる位置まで行くには、組織の中にいたらあと20年かかると思いました。あと20年、待つか。動くか。モヤモヤとしていたところに、福島の原発事故が背中を押したという感じです」

 

原発事故があって「本当にこのままでいいのかな」という気持ちがすごく大きくなってしまった、と大西さんは言う。「県内の環境活動家と呼びかけ合って、『みんなのエネルギー会議』というのを広島で行いました。広島は原爆の被災地でもあって、東京から有名な人が話をしに来てくれたりも。そんな活動をしながら、でもこれ、言っているだけじゃ駄目なんじゃないか、本当に世の中を変えたいんだったら、自分でも事業を興すべきじゃないかと考えるようになりました」。残り20年を、庁内で待ちながら過ごすか、外に出ていろんな働きかけをしながら過ごすか。大西さんは後者を選び、広島県で再生可能エネルギーの一般社団法人を作った。そしてまだ事業が軌道に乗っていなかった2015年。新城市が、再生可能エネルギーをテーマにした地域おこし協力隊を募集していると知る。36歳。地域おこし協力隊員として、大西さんの新城市生活が始まった。

 

新城で「再生可能エネルギー」に取り組むなら…

 

新城市にやってきた大西さん。再生可能エネルギーの協議会でも、コーディネーターとして活躍する。大西さんが目を付けたのは、森の豊かさだった。

 

「新城市は83%が森林なんです。旧鳳来町に限れば、それ以上。現在は間伐の必要があって、伐採した木を生かせずに山に放置という問題も出ている。だったら、その木を生かしてやるべきではないかと思ったんです」

 

その頃新城市では、湯谷温泉の重油ボイラーが老朽化していた。

この先どうするかに頭を痛めていたのは温泉を管轄する市役所観光課。一方で市役所森林課には、森林資源をどう活用していくかという課題があった。「湯谷温泉に薪ボイラーを」という大西さんの意見は、協議会等での話し合いを重ねて、少しずつだが現実味を帯びていく。

 

「当時は、再生可能エネルギーといえば、太陽光発電ばかりが進んでいた時代。また、国でできた制度が後押しとなって、発電はお金儲けになる、というような視点で大企業が動き始めていました。木質バイオマスについても然り。再生可能エネルギーは金儲けの道具ではない。そこに住む人の暮らしの幸せにつながるものであるべき、と考えていたので、ここでぜひ薪ボイラーの取り組みがしたいと考えていました。僕なりの、日本社会の風潮に対するアンチテーゼだったわけです」

 

 

薪ボイラー事業を行う会社を自ら設立

 

再生可能エネルギーに詳しい大西さんが地域おこし協力隊として参加していたからといって、物事がすべて順調に進んだわけではない。「地域おこし協力隊が終わった後、実は一時期京都に帰っていました」と笑う大西さん。

 

「新城でずっと薪ボイラーのことをやっているように見えるかもしれませんが、協力隊が終わった後、しばらく実家のある京都に帰っていたんです。協議会のコーディネーターは続けていたので、月に4、5日は新城に通っていましたが。協力隊の任期が終わるまでに、薪ボイラーのGOが出なかったんですよね。多くの人が関わることを、納得してもらえるように進めていくことの難しさをひしひしと感じ、もうこれは無理かな…と。その後無事にOKが出て、1年半後にまた新城に戻って活動することになりました」

 

そして2018年。大西さんは、地域から木材を集めて薪にし、それを燃料に薪ボイラー事業を行う合同会社「フォレストエネルギー新城」を立ち上げる。「協議会は議論する場。物事を動かしていくには、組織・事業体が必要なんです。協議会のメンバーの何人かに出資していただき、リアルに動いていける会社を作りました」。行政とも連携しながら、地域で有効活用されていなかった資源(木材)を薪として整えることで再度生かし、さらには湯谷温泉という観光資源の個性としても力を発揮する。これが大西さんの作りたかった地域の姿であり、組織を作ったのは、これを何としても実現する、という大西さんの強い決意のあらわれだった。

 

少年は今、「使命」に生きる

 

2022年。新城市での暮らしは7年が過ぎた。冒頭で書いたように、今「ホッとしている」と言う大西さんの胸中を聞いた。

 

「自分が、これが必要だ!と言い続けてきたことをやっと形として実現できてきた、その最中なので、やっとここまで来たなという思いです。有言不実行なんて、かっこ悪いじゃないですか。僕は自分のスタンスや活動について『なんでこんなことやっているの?』と言われることも多かった。偉そうですけれど、若気の至りですけれど、ずっと『社会を変える』と言い続けてきたんです。そしてそのためには、言うだけでなく、現実の中で動くことこそが不可欠だと感じてきた。それがやっと、何とか動き出して、ずっと思い描いてきたことが形になっていく今が、楽しいですね」

 

ここまで来るのに、どれだけ多くの人と話をし、声を聞き、落としどころを探し、時には諦め、また作り出してきたのだろう。今もまた、行政、協議会、NPO、木材の提供者…、多くの人と接し、つないで、この事業を進めている。

 

「まだ潤沢にお金があるような会社になっていないので、24時間365日動き回っている感じです。充実はしていますが、もうちょっとプライベートの時間も作らなきゃですね。その辺は、これからの課題です」

 

「知ってるつもり⁈」を観ていた少年は40歳を超え、環境・再生エネルギーをテーマに出逢った田舎町で、自らの「使命」にしっかりと向き合い、結果を出している。きっかけは偶然だったかもしれないが、今や新城市にはなくてはならない存在。そんな風にひとりの人間との出逢いで豊かな変化を見せる、それもまた、田舎の魅力なのかもしれない。  

 

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合同会社フォレストエネルギー新城

yasushi_ohnishi@m7.dion.ne.jp

 

 

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