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あいち田舎暮らし応援団

あいちの山里暮らし人だより

~Michi~

Vol.10

「僕は、ここの山守になりたい」

崩れた山を目の当たりにし、「災害に強い森」を自分の手で成し遂げたいと森づくりの世界に飛び込んだ林業起業家

オーストラリアの砂漠をオートバイで駆け抜けた若者は、帰国後、旅の途中で中越地震に遭遇。崩れた山を目の当たりにし、「災害に強い森」を自分の手で成し遂げたいと森づくりの世界に飛び込んだ。林業をはじめて16年の今、目指しているのは「多様性のある森」。合同会社新城キッコリーズ代表の田實健一さんにお話を伺った。

 

陽の目を見なかった枝虫(えだむし)材に活用できる場所ができた

 

「ここに置いてある木は、ほとんどが枝虫材と呼ばれるものなんです」

 

枝虫材とは、スギやヒノキの枯れ枝にスギノアカネトラカミキリなどの虫が産卵し、幼虫が枯れた枝の節から木の中に潜り込み、虫が喰った痕が残った材のこと。わずか数ミリ食われただけで、材の値打ちは下がる。ただし、構造材として、強度に影響がないことが証明されている。  

(枝虫材の様子)

 

田實さんたちが間伐している森の多くは、手入れが不足していた森である。枝打ちなどの作業が行われず、そこに害虫が産卵した結果、枝虫材と呼ばれる木になってしまうのだ。

 

ではなぜ価値が低いとされる枝虫材が、このように土場(※)にたくさん積み上げてあるのか。

新城市では、令和元年11月から、市の事業の一環として、1300年の歴史を誇る湯谷温泉の加温施設に木質バイオマスボイラーを導入している。そのボイラーの燃料として供給するためなのだ。ボイラーの燃料として、枝虫材の薪を使うということは、化石燃料の使用を削減することによるCO2排出削減と、未使用であった間伐材の地産地消が同時に実現できる取り組みなのだ。

※土場とは、木材の輸送や 保管のために利用する木材の集積場所のこと

 

「合同会社フォレストエネルギー新城がこの薪土場を管理しています。僕らの薪の納品先でもあります。代表の大西さんは、地域おこし協力隊として新城に来た方で、環境問題について同じ志を持っている仲間なんです。僕らの伐った木が、燃料材として観光産業にまで繋がっているんです。薪ボイラーのおかげで間伐材を山から搬出してくる目的ができ、僕らとしてもとてもやり甲斐を感じています」

 

(新城市報道機関発表資料より)

 

枝虫材は市場に出しても引き取ってもらえず、間伐しても山にそのまま寝かせておくしかなかった。しかし、木質バイオマスボイラーが導入されたことにより、薪としての供給先ができて、田實さんたちの間伐した木も山から搬出することができるようになった。その結果、それまで加温施設で使用されていた重油の1/3が薪に置き換わったそうだ。

 

その上、もう一つ新しい展開があった。

このように、道沿いの土場に丸太を積み上げておけば、いやでも道路を通る人の目に触れることになる。偶然、近隣の製材関係者の目に留まったのだ。

 

「地元の製材所さんに、丸太を納品できるようになりました。「意外にいいね」と言っていただき、うれしい限りです。今では、間伐した木の中の1割ぐらいを納品しています。細い木や、枝虫の被害の大きいものは薪にして、ヒノキの太いものだけを選んで納品しています。その材は、板材になっているそうです」

 

真面目に山のことを考え間伐作業を行ってきたことが信頼を生み、結果的に地元の山の環境改善にもつながっている。

 

新城市でスタートした木質バイオマスボイラー事業の一端を担っている田實さんは、どのような経緯で林業に従事するようになったのか。

 

砂漠のオートバイレースに出て気づいたこと

 

田實さんは、長野県の生まれ。父親の仕事の関係で、幼稚園時代にタイに滞在。小学校入学時はシンガポールにいた。小学校5年生の時は、学期ごとに違う小学校に通学していたという転校生の猛者だ。そのおかげか、どこに行っても誰とでも打ち解けるのに時間はかからない。中学2年生の時に愛知県に引越してきて、県内の高校を卒業した。飛行機の勉強に関心を持ち、九州の大学に進学した。

 

「当たり前ですけど、実際に飛行する授業はなかったんです(笑)。力学の計算に明け暮れる毎日の中で見つけた趣味が、オートバイでした」

自分の手でバイクの整備をし、自在にバイクを操ることに没頭した。卒業後はワーキングホリデーの制度を活用してオーストラリアに渡り、アリススプリングスのバックパッカーズで働きながら、プロのオートバイレーサーを目指して砂漠地帯を走り回った。現地の人に、「オートバイレースを見に行きたい」と話したら、あれよあれよと国際ライセンスを取得する手続きが整えられ、何故か見る側ではなく出場する側になっていた。日本人初の出場ということで新聞社や雑誌の取材を受けた。出場車のうち、半分はリタイヤするという過酷なレースを終わってみて気が付いたことは、大満足な気持ちと自然の中を縦横に走ることに快感を覚えていたのだと。

 

 

地震で崩れた山を見た

 

 

帰国後は、バックパッカーズでの宿泊業の楽しい経験から宿泊施設に関心を持ち、下呂温泉の大型旅館で3年働いた。その中で「体験型宿泊施設」に興味が湧き、自分がお客様に対して何を体験させることができるのかを模索するためにオートバイでの旅に出た。その途中で中越地震に遭遇。

 

「山がこんな風に崩れるとは知りませんでした。災害現場近くの森林組合がきて、間伐材で小屋などを設置していました。その当時は、森林組合の存在すら知らなかったんですが、山や森林を管理し働く「林業」という職業に関心をいだくようになりました」

 

ハローワークの求職活動では、迷わず「林業」のキーワードで検索した。旧鳳来町の会社がヒットし、そこに勤めることになった。

 

「災害現場で山崩れを目の当たりにし、助けたいという気持ちとこんな風になってしまうんだという驚きの気持ちの両方を感じました。災害現場で目にした林業マンたちの姿を頭に思い浮かべて、林業の道に進んでみようと思いました」

 

災害現場という特殊な状況で森林と出会った田實さんは、どうすれば地震の影響を受けにくい災害に強い森林になるのかと考え、自らもそれに携わりたいと決意したのだ。

 

ところが、就職した林業会社は残念ながら一年で会社を閉じることになり、森林組合で働くことになった。その際、従業員ではなく、雇用形態をとらずに請負業務を行う「一人親方」になってきてくれと言われた。このため、自分で労災保険等に加入し、自分でチェンソーを買い揃え、仕事ができる状態を整えて作業班に入った。  

災害に強い森をつくりたい

 

ところが、先輩の親方とソリが合わず、もやもやした気持ちが募った。しかし、せっかく関心を持ってはじめた仕事なので投げ出したくはなかった。そんな時、近隣で活動する、林業のプロが運営するNPO法人森林真剣隊を知った。プロを中心に志のある素人も交じって、真剣に森のことや環境のことを考え、実践している集団だった。森林組合での仕事とNPO法人での学び、どちらも欠かせないものになっていた。いろいろな間伐現場に赴く中で、木を伐るだけが仕事ではないことを知り、間伐にまつわる測量や調査、境界確認などの仕事を覚えた。何より災害現場を目の当たりにした一人としては、「災害に強い森つくり」をできるだけ早く実践していきたい気持ちが強かった。

 

プライベートでは、旧鳳来町の会社に勤めているときに知り合った人と結婚。義父はもともと森林組合で働いていた人で林業歴60年の大ベテランだった。

 

「義父は、さすがにもう引退していますが、何かあったときは今でも相談に乗ってくれます。近くの村の出身なので、ここらの山のことには詳しいです」

 

家族ができたことで、より新城市に対する愛着も深まった。伐る仕事に加え、測量や調査などの仕事を覚え、山の仕事の全体像も見えるようになってきた。地震の被害を目の当たりにし、環境問題として山に関心を持ち飛び込んだ林業の世界だが、自分の思うように仕事を進めることは難しかった。森林の将来像を共有することが大切だと考えているのに、その部分に重きを置く人は思ったより多くはなかった。何より残念だと感じたのは、請負期間が過ぎると、その山とはご縁が途切れてしまうことだった。

「一人親方として請負契約で仕事をしていると、仕事が終われば山とのご縁が切れてしまいます。少し時間が経って、「あの時間伐した山はどんな風に変化しているかな」と思っても、人の山に勝手に立ち入ることはできません」

 

森林の仕事は、生き物相手の仕事だ。間伐が終わっても森林は常に成長しているし、どのような変化が起こっているかこまめに関心を寄せることが大事だと考えている。今の仕事の受け方・やり方のままでは何年か経った山の状態を確認することができないと分かった。「自らが山主から直接仕事を引き受けられるようにして、山主さんとの信頼関係の中で長年にわたって山の管理をさせてもらう仕事のやり方がしたい」と思い、田實さんは独立開業を考えるようになった。林業をスタートしてから10年経っていた。

 

独立して気が付いた人材育成の大切さ

 

平成27年末に会社設立の届け出を提出し、合同会社新城キッコリーズを立ち上げた。そして、「さあ、自分の信念に基づいた仕事をしよう」と、一緒に仕事をしてくれる仲間を探した。

 

「自分の右腕になってくれる人がいないかと探しましたが、いないんですよ。そこで初めて、人を育てないといけないと気が付きました」

 

新城キッコリーズでは、現在2人の従業員がいる。2人とも、「緑の雇用」制度を利用している。「緑の雇用」とは、林野庁の「緑の雇用担い手対策事業」の略称で、林業へ新規参入する労働者の雇用を支援する制度のことだ。若手の柴田さんは2年目。もう1人の小柳津さんは、4月に入社したばかりの40歳代の新人さんだ。2人とも自ら林業を志して「森林の仕事エリアガイダンス」に足を運んだ人たちだ。

 

「緑の雇用の制度では、月に数日、合同研修があるんです。その時に、ほかの事業体で働いている方と一緒になります。いろいろ情報交換をしたり、お互いの近況を報告することがあります。そんな時、キッコリーズは特別な職場だと気づかされます」と柴田さんは言う。

 

一般的に林業界では、木を伐るために現場を測量する人、選木する人、木を伐る人、伐った木を運搬する人など、一人一種類だけの作業を分業分担して仕事をするケースが多い。新城キッコリーズでは、すべての作業を全員が行っている。しかも、小学校への出前授業や取材を受けることも仕事の一環として誰もが携わっている。一種類だけの作業ではなく、すべての作業を体験することで、森全体、仕事全体を俯瞰して考えてほしいとの思いからだ。ヨーロッパの森では、樹木の管理はもちろんのこと、シカなどの動物の頭数管理やジビエの販売、獣害の問題や土砂崩れの問題など、全体的に森のことを考えながら森林施業を行っているそうだ。「日本でもそうなってほしい」と田實さんは考えているのだ。

 

 

「視野の広い人間になってほしいですね。そして、彼らが独立してくれたら同じ思いで仕事をできる仲間が増えることになります。点が線になり面になるんです。そのためには僕も持っている技術はすべて教えたいと思っています」

 

田實さんは、愛知県の「指導林家」に認定されている。

「指導林家」とは、地域の模範的林業経営を行っており、林業後継者の育成指導に理解があり、積極的に指導活動ができる者に認定されるものだ。

 

毎年、高校生が林業経営を学びに来ているが、その中の2人が県内で林業に従事するなど、少しずつ実績が目に見える形になってきた。

 

「うちに就職しなくてもどこかで林業に携わっていてくれると思うとうれしいですね。林業は危険が伴う仕事でもあります。だから、万が一、自分がケガなどをして第一線を退かなくてはならなくなることもあるかも知れません。仮にそんなことになろうとも、次の世代に伝えるという指導林家の仕事だけはして続けていけたら良いなぁと思っています」

 

小学生など前に話をすることもよくあるのそうだが、かつては頑張っている自分を知ってほしいという気持ちが心の片隅にあったそうだ。しかし、いつからか目の前にいる小学生が将来のどういう山主に育っていくか、どう育てていけるかと考えるようになったという。

 

共に働く従業員に対しても同じだ。将来この森をどのような森にしたいかという理想像を共有できないと、仕事をしていても全くかみ合わなくなってしまう。だから、繰り返し理念を共有しながら丁寧に技術を指導することを大切にしている。

 

(森に落ちていたどんぐり)

 

「災害に強い森」のその先へ

 

「災害に強い森をつくりたい」と志した林業。16年経た今は、災害に強い森とは、災害が起きて崩れても「すぐに対応できる人材が育っている森」、災害が起きたとしても小さな被害にとどまるような「多様性がある森」であることが大切だと思い至った。

 

「ここら辺の森は、スギやヒノキの人工林です。僕らが間伐作業をすることによって、林床に陽が当たるような明るい森になると、実生※の植物が生えてきます。それらの広葉樹を大切に残していけば、将来的に針葉樹と広葉樹の混じり合った森ができます。そういう森は、林業だけをする森でなく、動植物が共に共存する場所になるでしょう。あっウサギがいたな、あそこにウサギの巣があるのかな? だったら、あの辺りは、そっとしておこう。そんなことを見つけられる森が「多様性のある森」だと思います」

 

※実生とは、種子から発芽したばかりの植物

 

そのために大切なことは、毎日、森を見て、ずっと同じ森を管理し続けていくこと。

 

それぞれの地域で、それぞれの森を守る人が増えるよう、田實さんは、持てる技術を惜しみなく次世代に伝え続けていくことに力を注いでいる。

 

Information

合同会社新城キッコリーズ

愛知県新城市井代字大貝津37番地

TEL:090-9928-4070

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