地元の材にストーリーを載せて届けたい
モノづくりの大切さ、木の面白さを次の世代に伝えたいと語るUターンした木工作家
2021年5月、道の駅したらがオープンした設楽町。道の駅のキャッチコピーは、「郷土愛が詰まった宝箱」。そこから車で10分、看板を頼りに細い道を登っていくと現れるのが、工房「木と革aoyama」。
「ここから出たい」と18歳の時に故郷を後にした青年は、気が付いたら、幼い頃に褒められた木工の道を志していた。楽しく充実した毎日を積み重ねる中で考えたのは、自分たちの暮らしのあり方。共に地方出身の夫婦がステップアップ先に選んだのは、夫の故郷、設楽町だった。11年前に設楽町にUターンし、夫は木工担当として、妻は革の担当として工房「木と革aoyama」を運営する、オーナーの青山和志さんにお話を伺った。
ほめられて嬉しかった
18歳まで設楽町で育った青山さん。小学校5年生の頃、木のロボットを作ったそうだ。誰かが勧めたわけでもない。その当時、いつも遊びにいっていた近所のおばあちゃんの家がリフォーム工事をしていた。そこでは大工さんが作業をしていて、木っ端をもらって帰り、家にある大工道具で木のロボットを作った。そして、自由研究の作品として小学校に提出したら、先生にとても褒められた。
「自分としても力作だと思っていたので、褒められて嬉しかったんでしょうね。多分、それがモノづくりに関する一番古い記憶ですね」
ここから出たい
思春期になると田舎が嫌いになり、地元の高校を卒業した時は、東京に行きたいと考えていた。理由は一つ、「ここから出たい」。頭の片隅には、モノづくりがしたいという想いもぼんやりとあった。先に家を出ていた姉の後を追い、上京。デザインの専門学校に入り、インテリアを学んだ。専門学校に通いつつ、アルバイトに精を出す毎日。このままじゃまずいと思っていた時、偶然、目にしたのが100年続く老舗の材木屋の従業員募集の広告だった。「下町のハンズ」という謳い文句に惹かれてそこで働き始めた。
「今思えば、小学生時代のものづくりのことが、選択肢としていつも頭にあったんでしょうね。これを優先したい、と」
働き始めた店では、70歳代の親方から、7-8年、みっちり仕込まれた。アルバイトから社員、そして親方の引退に伴い、店長となり、青山さんが中心となって店を切り盛りすることになった。
「歌舞伎座の舞台セットを作る会社でしたので、技術はもちろんのこと、接客についても学ぶことが多かったです。お客様とのやり取りのなかから、ものを作り出す楽しさを知りました」
楽しさと苦しさに挟まれて
やりがいのある仕事。楽しいことが溢れる生活。ただ、暮らしという面では、楽しさより、苦しさが上回る時があった。満員電車に揺られ、残業続きの毎日。何のために働いているのかわからなくなる時があったという。
「仕事の面では、やりたいようにやらせてもらえる有難い職場でした。ただ、本当に自分のやりたいことは何なのか、と自問自答し続けていました。」
当時住んでいた台東区浅草は革製品の店が多かった。最初に青山さんが革細工を学び始め、ほどなく妻の有紀さんも共に学ぶようになった。
結婚して子どもも授かった。共に地方出身で親戚が近くにいない場所での育児、このままここに住み続けるのかという問い、独立して工房を持ちたいという夢。青山さんの葛藤を感じ取り、次へのステップを踏み出すよう背中を後押ししてくれたのは、有紀さんだった。
「いつも妻がことあるたびに、問いかけてくれていました。仕事で悩んでいる時も、これからどうしたいのかと考えている時も、本当にやりたいことは何なのかと考えている時も」
インテリアという共通言語がある二人。本来、インテリアとは元来、“内面”という意味がある。有紀さんは、青山さんの内面にある気持ちの深堀りと掘り起こしをしてくれていたという。
「僕は、いつか帰ろうって言っていました。でも、その『いつか』は、『いつか飲みましょう!』の『いつか』と同じで、決まらない約束でした(笑)」
そんな青山さんだったが、仕事の区切りがついた時、有紀さんの問いに意を決し、「いつか」に向けて動き出した。
「どこに住む?」
「中部地方だね。」
「仕事をするなら?」
「都心だね。でも、材料の入手を考えると設楽町に近い方がいいね。」
そんなやり取りを繰り返すうちに、とうとう本当の気持ちにたどり着いた。
「根差して暮らせる場所がいいよね」
こうして20年の東京生活に終わりを告げ、青山さんは家族とともに、設楽町の実家に戻ってきた。
変わらない風景が待っていた
嫌だと思って出ていった故郷に帰ってみると、そこには、時が止まったように以前と変わらない懐かしくも感じられる風景や自然があった。でも、それらも含めて物事を見る自分の目線が変わっていた。若い頃はデザインありきだったが、素材ありきで物事を見て、考えるようになっていた。
「積み重なってきたんだな、って感じます。年齢とか、環境とか、家族とか」
移住してきた当初、設楽町出身でない有紀さんは寂しい思いもされたそう。有紀さんは「木と革 aoyama」の革の創作物を担当。寂しさを感じる時でも、革の制作活動していることが、有紀さんの心の支えになっていた。作家として、お客様や他の作り手とコミュニケーションを図ることが、孤独を紛らわしてくれた。
同時期に、新城市の門谷小学校で行われていた「イ・マエストリ」というクラフト市を主宰する人に出会った。青山さん夫婦としては、作品を発表できる場があることが嬉しかったし、それ以上に、身近な地域でこのようなイベントをする人がいてくれること自体が心強く感じた。自分たちの知っている素敵な作家をもっと多くの人に知ってもらいたいという主宰者がスタートさせたイベントは、作家の発表の場としてだけでなく、地域を盛り上げる結果にもつながった。こうした想いに共感した人が、ボランティアでスタッフを買って出たり、場所を提供してくれる人が現れたり。このイベントが、移住当初の青山さん夫婦の大きな励みになった。
地元設楽町では、Uターン当初、移住者と地元育ちという両方の視点を持っていることが重宝され、町内のセミナー講師や移住促進の手伝いを頼まれた。移住の相談を受ける中で、もっと自分らしく相談に乗れる方法はないかと考えるようになったという。そして、もともとあった牛小屋を改装した現在の店舗・アトリエを交流の場にすること思いついた。
見えてきた役割
移住したい人が気軽に相談できる場所、二地域居住したい人にとって面白いと思えるような居場所の一つになればいいと考えている。移住は考えていないけど、モノづくりが好きだという人も大歓迎。そんな緩やかな対話の拠点、居場所になれたらと青山さんは考えている。
「うちの店舗のスタイルは、商品の販売はもちろんですが、モノづくりの体験も提供しています」
今では、家族でやってきて田植え体験を楽しむ人、木工ワークショップを楽しむ人など、様々な方が訪れている。また、ワークショップを開く場所として近隣の移住者に店舗スペースを提供することもある。
移住する前は、ここは田舎だから自分たちのモノづくりは出来るけど、まさか人が来てくれるとは思っていなかった。WEBなどの写真を見て、「ものすごくいい所ですね」と褒められたり、「こんな環境でモノづくりできるなんて幸せですね」と声をかけてもらったりするなかで、改めて地元設楽町の価値を再認識したという。
「ここで待っていても来てくれないから、出ていかなきゃと考えていましたが、そうではありませんでした。おしゃれじゃない、交通の便が悪いと一方的に否定していたのは自分でした。今は、それを活かすにはどうしたらよいかと考えられるようになりました」
東京で吸収した技術やセンスをどうしたら活かせるかと常に考えている。同時に、地元設楽で取れる素材に対しても常にどのように活かしていけるかということを考えているという。aoyamaの定番商品のカップホルダーは、スギ材で作られている。本来、建材としての用途が主な使い道。柔らかさが弱点だが、それを長所と受け止め、使い道を考えた。地元の木を使いたい、保温性を活かしたい、節があるから、それを個性として活かしたい、そんな思いから生まれた商品だ。
青山さんの制作したカウンターと椅子は、名古屋市でも活躍中だ。2020年オープンした久屋大通パーク内の和食店 糀MARUTANIのカウンターにも青山さんの作品が使用され、シックで落ち着きのある店の雰囲気を演出している
5月にオープンした、道の駅したらにも青山さん制作した椅子とテーブルが納入されるなど、地元の木の良さをPRする場面では、なくてはならない存在なっている。
青山さんのセンスで、地元の木材に新しい息吹を与え、それらがおしゃれで温かい作品となって、木の持つ魅力を発信している。同時に、木の持つ魅力だけでなく、設楽町の魅力も一緒に伝わっているはずだ。
「木をもっといろいろな人に使ってほしいんです。木って面白いんです。ただモノを置いておくだけでは、伝わらないこともあるから、もっと語らないといけないと思ってます」
情報網や、交通網が発達したので、行き来がしやすくなってきた今、もっと交流が増えればいいと青山さんは考えている。
「Uターンして11年、地域の先輩方に声をかけてもらって、とても良くしてもらいました。これからは、僕が、恩返しをしていきたいと思っています」
地元の高齢者との話は、何につけ吸収するものが多い。青山さんとしては、若者世代とうまく関係性を持って上手に高齢層とつなげて世代間を取り持っていけたらと考えている。
昨年は、身体がくたびれるぐらいモノづくりに励んだ。今年は、もちろん仕事はしているが、気持ちの上で、休憩の時期だと感じている。仕事もプライベートも充実し、一度、歩みを止めて見直し、そして改めて次へ行く、そんな感じだ。
地元の素材を、自分のセンスで創作することで、ニーズにマッチする作品を生み出すことにも、手ごたえを感じてきた。年齢、というより経験値が上がってきた、そんな実感がある。今まで先輩が、そうしてくれたように、これからは、若者の背中を押せる立場になりたい。そして、次の世代にモノづくりの楽しさと、木という素材の無限の可能性を伝えたい、そう考えている。